瀬戸内海の夜は、静かだ。
大阪南港を出たオレンジフェリーは、愛媛・東予港に向けて暗い海を滑るように進んでいた。エンジンの低い振動が船体を通じて伝わり、それはまるで巨大な生き物の心臓の鼓動のようだった。
男は、歯を磨いていた。
フェリーの大浴場を出て、洗面所に立ち、鏡に向かって歯ブラシを動かしていた。ただそれだけの、何でもない夜だった。
隣に、一人のおっちゃんがいた。同じように歯を磨いていた。二人の間に会話はなかった。フェリーの洗面所で隣り合った者同士、それが普通だ。
崩れ落ちたのは、その瞬間だった。
音もなく。前触れもなく。隣のおっちゃんが、まるで糸を切られた操り人形のように、崩れ落ちた。
男の体は、考えるより先に動いていた。
隣の人に助けられ、男はおっちゃんを支えた。自分のロッカーを開けて、着替えさせようとした。
だが、男は危ないと思った。おっちゃんの様子がおかしい。歯磨きしながら、鏡越しに監視を続けた。
そして、それは起きた。
おっちゃんが男に背中を向けた。そのまま、真っ直ぐに、倒れてきた。
男は、すごい速さで振り向き、両手を広げて、受け止めた。
けれども、そのまま男も倒れてしまった。おっちゃんの頭が男の腹の上に乗っかっていた。
おっちゃんは、頭を持ち上げた。
そしてまた、おろしてきて、男を枕にされた。
男がいなかったら、おっちゃんは頭を打って死ぬところだった。
男の腰は、痛かった。

場所・症状・発症パターンから疑われる原因を診断。ぎっくり腰から大動脈瘤まで。
風呂から出てきた中学生に、SOSボタンを押してもらった。
助けは、来なかった。
ひとまず立ち上がったら、おっちゃんは「大丈夫」と言うか。
倒れた。
また、倒れた。
二回目の後ろから抱きかかえ、そうこうしていたら職員さんが来たから、引き渡した。
男は、えらいやつだ。男がいなかったら、危なかった。
でも、おっさんには、なーんもお礼言われんかった。
可哀想に。
腰は、少し痛い。
瀬戸内海の夜は、静かだ。
オレンジフェリーは何事もなかったかのように、愛媛へ向けて進み続けていた。
男は、腰をさすりながら、船室に戻った。
翌朝、愛媛の港に着いた時、男は少しだけ背筋を伸ばして歩いた。
誰にも気づかれない英雄は、そういうものだ。
まだチャットがありません。最初のチャットを書いてみよう!